2。 先行研究
日本の研究者たちが注目しているのは中島敦の作品に出てくる主人公の運命と性情の繋がりである。中島敦についての研究において、佐々木充氏が有名で多くの論文が発表されている。氏の 「中島敦*中国古典取材作品研究」の論文には、中島敦の中国古典文学を題材した作品とその典拠との移動を徹底的追求し、それについて精緻な分析と考察を行っている。佐々木充氏は「作者のモチーフは人間は意識的にしろ無意識的にしろ、自ら選択した運命に従ってしか生きられないものだ。人間は自らの愚かさに従ってしか生きられないものだ」と主張している。氏が注目しているのはやはり運命と性情の繋がりである。人間の運命を決定するのは「自らの愚かさ」、つまり性情だとされている。
中国の研究者たちが注目しているのは中島敦の作品と中国古典文学の関係である。代表的なの孟庆枢氏の「中島敦と中国文学」である。その論文には、中島敦の作品とそれぞれの典拠との異動を分析し、中島敦と中国文学の関係を論じている。氏は「中島敦は作品の中でアジア芸術をたたえている」と肯定している。そして、王新新氏は「中島敦の中国典拠の利用と演繹」と題する論文の中で 中島敦の家庭背景と当時の社会背景を考察した上で、中島敦の中国古典文学の素材を利用して人物を描いたという創作特色の形成とその主観的原因と客観的原因を分析したものがある。
「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」、この異常な性格の欠陥が李徴を虎と化したものであり、この事に何故今まで気付かなかったのかと、痛切極まりない懺悔は、実はこの「自己を知らなかった嘗ての愚かさ」であることを述べている。中島の人間観は「人間は誰しも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが各人の性情だという」ということである。
ここまでの「山月記」論を振り返ってみると、今の段階では、「山月記」はいろいろな方法で論じられたのは明らかであろう。もちろん、作品は作者の手から離れる途端に、様々な解釈が可能であり、また、本来作品は享受主体とのかかわりの中で理解されるべきであるから、それらの方法には疑問がない。ここで、「山月記」について今までの論点を踏まえるうえに、「人虎伝」との比較作業をすると同時に、「山月記」の主題を整理したいと考える。その上に、「山月記」論を少しでも深い作品理解の方向に進行させるのに役に立ったら、幸いと思う。
3。 「山月記」について
3。1 「山月記」創作の背景
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は立憲君主制をとり、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。
昭和10年代(1935年 - 1944年)の軍国主義的な重苦しい時代には、太宰治が『富嶽百景』(1939年)、『津軽』(1944年)などの傑作を発表したほか、日本や中国の古典に造詣の深い堀辰雄や中島敦らが秀作を残した。また、芥川賞と直木賞が成立し、文学がジャーナリズムの注目を浴びるようになった。『蒼氓』(1935年)によって第1回芥川賞を受賞した石川達三は、以降長く活躍した。この時期、石川淳や織田作之助ら無頼派の活躍も目立った。文献综述 《山月记》和《人虎传》的对比研究(2):http://www.youerw.com/riyu/lunwen_189173.html