晋の初代皇帝の武帝(236-290)が三日に曲水宴を行う理由を聞き、まずは摯仲洽が、由来に関する徐肇の三女の故事を述べたが、その内容が不吉で好ましくなかったために左遷されてしまい、次に束晢は、周公·秦昭王などの物語を語り、武帝の歓心を得、褒美を賜ったというものだ。これらの故事の真偽は不明だが、逸話の構成からみれば、晋代の時三月上巳の禊祓儀礼と曲水宴は既にまとめされたことがわかる。また、中国、日本において最も有名な曲水宴の行事は、中日の画人に描かれて数多くの名画として残された「蘭亭曲水宴」である。蘭亭曲水宴とは、晋の永和九年(353)の癸丑の歳に、書聖王羲之が会稽内史在任中に三月三日の節句の日を期して、会稽の蘭亭に禊の宴を催したものである。论文网
既に知られるように、日本における曲水宴は三月上巳の行事としての嚆矢は、顕宗天皇の時代である。『日本書紀』により、顕宗天皇元年(485)の時、「三月上巳。幸後苑。曲水宴。」の記事があり、以後二年、三年にも「曲水宴」があった。また、律令体制の下、「雑令」の節日条に「凡正月一日。七日。十六日。三月三日。五月五日。七月七日。十一月大嘗日。皆為節日。其普賜。臨時聴勅。」と書いており、三月三日を節日として定着したことも明らかにした。この日は朝儀として賜宴が催されることでも有名であり、その節宴形式は一般に「曲水宴」と呼ばれることもあった。
曲水宴は三月上巳の儀礼の一つとして、その成立や変遷面などに言及している先行研究は、吉川美春の『三月上巳の祓について』が挙げられる。その中には、曲水宴が「(中国)大陸渡来の模倣儀礼」であるため、まず中国での変遷を参考に検討し、他方、日本での沿革については、兵頭英子の『雛祭りの起源--上巳祓・曲水宴について』によってまとめた上で、更なる考察を加えている。それらをもとに吉川の論は、当時の三月三日と三月上巳日が区別されたものとして、曲水宴などの三月三日の節宴と上巳の祓とは別個の行事であり、禊祓に関する行事は三月上巳日に行うものだったと見られる。また、三月上巳の祓が奈良時代にはすでに行なわれていたかもしれないと推察されている。
中国の風習では、三月上巳日に官民が水辺で禊祓儀礼を行い、その後に流觴宴飲を催した。そして、時代とともに曲水宴へと発展し、宮廷で盛んに催されるようになった。こうした三月三日に行われた曲水宴に、様々な詩歌が詠まれ、多くの作品が残っている。また、三月上巳の節宴を扱った物語も多い。
つまり、曲水宴に関する主な先行研究は、漢詩、和歌、物語などの文学を題材としたものが多い。周知の『万葉集』、『源氏物語』、『六百番歌合』は勿論、また、平安時代貴族の漢文日記、そして、室町時代、江戸時代の曲水宴上の詩歌も曲水宴の受容史を考察する上に重要な材料だと考えられる。文献综述
また、文字より直感的な芸術表現形式として、絵画も重要な研究対象である。『造園雑誌』所収の中にある根金作の「曲水考」によって、絵画から、日本の曲水宴は自然形の流れ、遣水に座して行うものと解釈できる。各時代の曲水宴の特色を研究するため、更に曲水宴の受容状況を明らかにするため、曲水宴を主題としての図像を巡る研究も相当な価値があると思う。
1。2 研究目的と意義 关于曲水之宴在日本的接受情况之考察(2):http://www.youerw.com/riyu/lunwen_196032.html