平安時代には遣唐使が廃止され、次第に日本独自の服装に変わっていた。男子は朝服から束帯へ、女子は唐衣裳装束や女房装束と言われる晴装束が着用していたようだ。
束帯、唐衣裳装束ともに袖部分は袖口の下を縫わない「大袖」を用い、これは現在の産着や長襦袢などに用いられる袖の形のひとつで、現在和服用語では広袖とも言われる。特に女性の唐衣裳装束の下に着用した下着を白小袖と呼んだ。
小袖とは礼服の大袖の下に着た下着、盤領筒袖の衣を言い、現在の和服、着物の原型と言われている。平安時代中期以降には大袖の下に下着として用いていたものが、平安時代末期には肌着として白小袖を用いるようになった。文献综述
鎌倉、室町時代には、武家男子の服装は直垂、女子は衣袴を用いた。装束の表着を一枚ずつ簡素化し、袴や裳は省略された。下着ではない、小袖のみの衣服に変っていき、室町末期には現在の着物の原型が出来上がったと言われる。このころから「身八つ口」のある着物になった。
江戸時代に入ると、日本は徳川幕府の命令により、鎖国の厳しい封建社会になったが、庶民階層が経済、社会面で、勢力を発揮し、町人文化が栄えた華やかな時代でもある。元禄期(1688~1703)には、元禄文様と呼ばれる明るい色調で金糸が多く用いられた華やかな小袖などが作られ、この頃には現在の着物とほとんど変らない形の小袖が生まれ、小袖が完成した時代とも言われている。また江戸時代後期には、帯締め、帯揚げを用いた「お太鼓結び」をするようになった。
明治時代は明治維新の開国によって、他国の文化が伝わり、生活様式、服装様式が急に欧米化した。宮中の礼服は洋服となり、それによって、上流社会の欧米化が進み、和洋折衷の服装が次第に一般人にまで浸透し始めた。
平成に入ると、日常的に和服を着る女性の姿を見かける機会は少なくなったが、冠婚葬祭においては、着用が一般的になっている。 また、浴衣については、花火大会、夏祭りといった夏のイベントの衣装として浸透しておる。また、日常的に和服を着る男性は、女性と比べて少なく、宗教関係者、職人など少数の男性が着られているほかは、ほとんど見かけなくなっている。