これに対して、教授包銘新など学者たちは違う考えを持っている。彼は確かにチャイナドレスは「旗女の袍」から変化してきたが、民国時期に中外文化を吸収したから現れたその服装こそ「チャイナドレス」と呼ばれられ、清代の満州族の女性が着っている長い上着は「旗女の袍」だと「チャイナドレス」と「旗女の袍」を区別した。
この二つ以外、まだチャイナドレスの定義について色々弁論あるそうで、統一はまだできていない。
1636年、満族が清王朝を建立し、満族の人が着用している袍服も満州から中元地域に伝来した。満族の八師団は八種類の旗印で分けているから、清代漢族の人たちは満族の人を「旗人」と呼び、旗人が着ている満族特有な袍服を「旗袍」と呼んだ。文献综述
満族が遊牧民族だから、乗馬の時に動き安いために服装の両側にスリットを入れた。そのスリットも現代チャイナドレスの重要な特徴の一つである。
清代、旗袍を着ていたのはほぼ旗人婦女である。しかも、地位によって、旗袍の色、生地、図案も異なっていた。
1840年、近代に入ると、沿海都市は西洋文化に大きく影響された。服装も徐々に変化していた。
1912年民国に入ると満族に反対する声が高いので、旗人女性も漢人女性もほとんど上衣下裳な風に服を着ていた。服装の民族性はそんなに明らかではなくなった。その時期、旗袍を着ていたのはだいたい妓女と女学生だったそうだ。
19世紀20年代はチャイナドレス流行の始めだ。西洋文化との交流、経済の発達、映画や広告などメディアの発展の影響で、チャイナドレスは何度も改善された。江南流域に位置する上海では、チャイナドレスを着る女性が驚くほど増えてきた。それで、1929年、伝統とファッションを精妙に融合したチャイナドレスは女性の礼服だと政府によって規定された。