『<文芸読本>川端康成』(昭和37年)河出書房新社
『新潮――川端康成読本』(昭和47年)新潮社
『<文芸読本>川端康成』(昭和52年)河出書房新社
『<近代文学鑑賞講座13>川端康成』(昭和34年)角川書店
『川端康成論考』(昭和40年)明治書院
『川端康成への視点』(昭和46年)明治書院
『川端文学の味わい方』(昭和49年)明治書院
『川端文学の構造』(昭和59年)教育出版センター
『川端康成作品研究』(昭和44年)八木書店
1.1.2中国における川端康成についての研究
1979年9月12日、中国の長春市で日本文学研究会が開かれた。川端康成についての研究の始まりとして、この会議において川端文学の研究についての研究論文が30本提出された。しかし、中国における多数の研究作品は“新時間感覚”と“物の哀れ”に関するものである。また、研究の作品は主に『伊豆の踊り子』と『雪国』に関するものである。それで、川端文学を全面的に理解するために、掌の小説を研究する必要がある。
2 川端康成の人生経験文献综述
川端康成は日本近現代文学の頂点に立つ作家の一人である。1968年に初めて日本の学者として、ノーベル文学賞を受賞した。川端氏は1899年6月14日に大阪市天満此花町に生まれた。川端氏の生涯に死が満ちていたと言われる。1歳で父を亡くした。それから2歳で母、8歳で祖母、11歳で姉、16歳で祖父を亡くした。川端康成にとって、生より死がもっと魅力的だと思う。高校時代の時に初恋の相手に婚約を破棄されたことは川端康成にとって大きな衝撃であった。孤児の感情と失恋の衝撃は川端文学の創作に重く影を落としていた。1920年東京帝国大学文学部英文科に入学した。しかし、彼は中学二年頃から作家になることを志し、『新潮』、『新小説』、『文章世界』、『中央公論』などの文芸雑誌を読み始めた。それで、1921年に文学科に転科した。同年、『招魂祭一景』を発表したことをきかっけに、菊池寛に知られた。そのために文学創作への道が開けた。1923年に菊池寛が『文芸春秋』という雑誌を私費で創刊し、川端康成や横光利一などの新進の文学者に金銭的な援助を支えた。川端康成は大学卒業してから、横光利一、石浜金作などの新進の文学者と一緒に『文芸時代』を創刊した。
卒業してから、川端康成が作家としての生涯が始まった。20代の頃から、40年余りにわたって書き続けてきた掌編小説は掌の小説と呼んでいた。1971年3月15日に新潮文庫より刊行された。一話の長さは、短い物で2ページ程度、長い物でも10ページに満たさない掌編小説が111編収録され、1989年つまり平成元年に改版から11編追加されて122編の収録となった。なお、川端の掌編小説の全総数は128編ほどになると言われていることもあった。同時に、“新時間感覚”の時代を迎えた。1926年『伊豆の踊り子』は『文芸時代』に発表した。翌年『文芸時代』を停刊した。その後、『雪国』を川端康成の創作の転換点として、1935年に書き始めた。『雪国』の中に“ものの哀れ”という感じが満ちていた。『雪国』は愛情の小説であるとしぶしぶ言っていいだが、そのあとの作品は特に戦後の作品は不倫的で、変態的なものであると言ってもよい。例ば、『千羽鶴』、『眠れる美女』、『片腕』などような作品は読者に変態な感じをさせる。しかし、1961年作家の睡眠薬依存の中で書かれた『古都』は例外として、“ものの哀れ”のような境地に戻れる。1972年、ガスで自殺した。