近年、中国では浮世絵についての研究が増えている。中でも、見立絵は浮世絵の一種であるが、それに関する研究は十分に行われているとは言えない。「見立」とは元は日本の俳諧用語であり、在来の事物を他のまったく異なった事物に転換する意である。『広辞苑』の中で見立とは「俳諧の付合で前句の内容と別なものに解釈しかえて句を付けること」を意する。文学方面の言葉である。見立絵とは歴史的・伝承的故事に題材を取りながら、人物や背景は当世風にして描いた絵のことである。特に、江戸時代には、趣向を凝らしたものが多く見られ、さまざまな階層の人々に親しまれた。浮世絵の見立絵はほとんど中国と日本の古代の物語と民間伝説から創作され、当時の社会風習、あるいは美人の姿などに転換された。美人画の見立絵は奥村政信時期から栄えており、「蚊帳美人之図」という代表作がある。紅摺絵時代見立絵はますます多くなり、石川豊信の「見立竹林七賢」は中国の「竹林七賢」の典故にちなんで創作された。
鈴木春信は江戸時代中期の浮世絵師である。彼は見立絵の発展を促す。彼は中国の古詩の方法で典故を見立絵の中に隠した。こんな簡単なイメージ転換を通して、見立絵をより高い段階に発展させた。鈴木春信は見立絵を創作した第一人者ではないが、彼のかき方はこの画風を集大成したと言っても過言ではない。したがって、見立絵を研究する際に、鈴木春信をも研究する必要があると考えられる。
1.1 見立絵について
実は「見立絵」は日本の芸術分野における専門用語ではなく、普通の日本語辞書の中にも見当たらない。しかし、美術の歴史を研究する日本の専門家早川聞多は見立絵を持ち、鈴木春信について検討した。「鈴木の絵の中に視覚の源があることは、まさしく中国の古典絵画の構想と組み立てである。数年前のポストモダンにある「流用」と「パロディ」の手法と少し似ている。」と指摘した。「見立」は先輩の絵や図式などを参照しており、新しい創作をすると同時に、先輩の作品をリファーした。一種の構想方法として、江戸時代の日本画家に広く採用された。
見立絵の代表人物鈴木春信の春画は優雅で婉曲である。この絵は見立絵の特色を持ち、我々に中国の絵画が日本の春絵に影響を与えたことを提示した。そのため、見立絵を「典拠画」、「レファレンス画」に訳すことができる。二十世紀三十年代から六十年代までの欧米の芸術歴史研究界の、モデル研究、即ちルーツトレーサビリティで家系図を探究する方法により、絵画作品の中に隠れている神話のモデルと隠されている芸術の源を掘り出すことが、一度流行した。
見立絵とは、歴史上の出来事や故事・古典を、同時代の人々が理解しやすい題材に託して描いた絵のことである。特に、江戸時代には、趣向を凝らしたものが多く見られ、さまざまな階層の人々に親しまれた。見立絵は浮世絵の一種であるが、それに関する研究は十分に行われているとは言えない。「見立」とは元は日本の俳諧用語であり、在来の事物を他のまったく異なった事物に転換する意である。『広辞苑』の中で見立とは「俳諧の付合で前句の内容と別なものに解釈しかえて句を付けること」ことを意する文学方面の言葉である。見立絵とは歴史的・伝承的故事に題材を取りながら、人物や背景は当世風にして描いた絵のことである。特に、江戸時代には、趣向を凝らしたものが多く見られ、さまざまな階層の人々に親しまれた。浮世絵の見立絵はほとんど中国と日本の古代の物語と民間伝説から創作され、当時の社会風習、あるいは美人の姿などに転換された。美人画の見立絵は奥村政信時期から栄えており、「蚊帳美人之図」という代表作がある。紅摺絵時代見立絵はますます多くなり、石川豊信の「見立竹林七賢」は中国の「竹林七賢」の典故にちなんで創作された。また「見立竹林七賢」など、洒脱な見立の才を示したとみられるものも、石川豊信の先例にならったものであることを知ると、春信の独創をたたえないわけにはいかない。美人の顔だちも、はじめ奥村政信の晩期のスタイルによりながら、漸次春信独自の相に洗練していったふしがある。