小論を書くために、色々な資料が集めた。その中に、坂井田ひとみの『日中狐文化の探索』という作品が発見した。その作品は主に中日古来のキツネにおける文学作品を列挙して、両国のキツネの文化の違いを詳しく説明した。松村洁の『なぜ日本人はキツネを信仰するのか』という作品の中に、歴史研究だけでなく、自分の体験も参考して、日本人はキツネを信仰するの原因を説明した。翁小倩は『狐信仰兴衰原因的民俗学研究』において、狐信仰の盛衰の原因を分析する。李玉潔は『論「聊斋志异」中の狐イメージの文化意味』という論文は中国の文学作品の中のキツネのイメージを分析して、キツネは中国人にとって、文化ばかりでなく、文学の地位も高くということを説明した。先行研究から中日両国におけるキツネのイメージがはっきりわかったが、その違いの原因には誰も触れていない。小論はその原因をちゃんと研究して、説明する。
小論はまず中国のキツネのイメージを述べる。次は日本文化に関するキツネのイメージを説明する。最後は中日文化の中で、キツネのイメージの違いの原因を研究する。
小論は中日キツネのイメージの違いを視点として、両国文化の現実と結びつけて、両国文化に関するキツネのイメージを比べて、両国文化の認識を深めて、そして両国の絆を感じようとする。
2.中国のキツネのイメージ
中国では、キツネに関する文化は上古時代に始まったと考えられる。
上古時代は、キツネは元々一部の部族でトーテムとされた動物であった、中国伝統的な信仰の一つで、最初に不思議な能力を持つ神獣として民衆に崇拝された。例えば、『史记·五帝本纪』 に黄帝「教熊、黑、辘、琳、泌、虎,以与炎帝战于阪泉之野。」ここの辘は『尔雅』 の分析によって、「白狐」のトーテムである。上古時代のキツネは、漢の時代の石刻画にもあるように、鳳凰、龍、麒麟などと同じように、高い徳のある霊獣と崇拝された。
春秋戦国と先秦時代においては、キツネは瑞祥の象徴になった。伝説から分かる。それは塗山氏女と禹結婚した後、禹は夏の王になった。だから、後世の民衆の思想、観念で、キツネは瑞祥の象徴である。後世はそれに関する文献も多い。例えば、漢代の趙曄は『呉越春秋』 巻四に、禹は三十歳で独身、結婚を考えていた。塗山で九尾狐を見て「綏綏白狐,九尾寵寵。我家嘉夷,来賓爲王。成家成室,造我彼昌。天人之際茲則行。」 という民謡を思い出し、そしてその塗山氏の娘、九尾狐を娶る。そういう文献があったから、九尾狐は瑞祥、神聖の象徴とされていたことが分かる。この時代から、キツネは女に化けるという伝説が登場している。しかし、そのキツネの種類は必ず九尾の白狐である。なぜ「九尾狐」の尾が九本なのかというと。中国では「九」という数字は最高の数字とされている。つまり、最高の数字を表す「九」とキツネが結びつけられ、九尾狐も瑞祥の象徴となった。ここは、キツネは民衆の心の中に瑞祥を代表する霊獣ということも証明された。来!自~优尔论-文|网www.youerw.com
両漢時代から、民衆はキツネに対してのイメージは両極化になった。当時、民衆はキツネを崇拝することが上古時代から続いている。その中に、最も崇拝されているのは九尾狐である。例えば、伝説によると、当時の九尾狐は西王母の使者という神獣と思われたそうである。漢の時代の石刻画に九尾狐と西王母はよく同じ石刻画に登場したことが後世に発見されていた。漢の時代の人にとって、西王母は仙人の中に一番崇拝される存在である。だから、両漢時代の九尾狐は民衆に崇拝されているということが分かる。一方、漢の時代から、キツネは妖精化されるようになった。東漢時代の許慎は『説文解字犬・部』では、「狐,妖獣也,鬼所乗之、有三德,其色中和,小前大后,死则丘首。」 と書いた。この内容から、漢の時代において、キツネは三徳の備える瑞物と見られる一方、鬼の乗り物という妖獣とも民衆に認識されていたと読み取れる。両漢時代のキツネは神獣と妖獣両方のイメージがある。