生産活動の過密化により、環境に多大な影響を与えた。化学工業の迅速な発展につれ、政府はひたすら経済成長を目指し、福祉と環境保護をないがしろにしていた。だが、60年代から、日本は環境保護に目を向け、比較的成熟な政策及び対策システムが実行され、そして、時代の発展により、少しずつ修繕され、完備されつつある。その原因を追求すれば、日本人には強い危機意識を持っているからである。この意識は、彼らの生活の各方面から見られる。本文は日本の環境対策から日本人の危機意識を研究し、環境保護の経験を学び、中国の経済発展及び環境保護の間によいバランスを求めることができるのではないかと思う。
1.2 先行研究のまとめと新しい視点
日本の危機意識を研究する人が多いが、環境保護対策から見る日本人の危機意識のはそれほど多くない。鈴木孝行の「新しい環境科学」では、現代社会に、環境保護の重要性という結論を出した。藤原邦达の「21世紀人間と環境の危機」は環境問題を提出して、それに、治理の対策について分析して、さらに、中西辉政の「国民の覚悟」を基づき、市民の意識の変更を指した。多種多様な対策は少ないが、政府と市民自身この二つ面から研究する。
本稿では、様々な資料をまとめて、環境保護の対策を分析し、さらに、高富の「危机意识和文化特性」を参考して、日本人の危機意識の形成、影響を研究したいと思う。最後、わが国の環境保護がそこからどんな経験が学べるのか、自分なりの発想を語りたいと思う。
2 日本環境の昔と現在
2.1 戦後から80年代まで
明治維新後、工業化時代に走んだ日本には、工業汚染問題が続きに現出した。第二次世界大戦の前に局部には深刻な産業公害や反公害運動が起きたことがある。当時の政府と企業は汚染を控えることに対し何の措置をとられなかったが、汚染物を分散した、高い煙突や排烟脱硫や電気であり、やほこりを取り除く、措置など汚染処理技術の方面には少しでも発展が見え、後の汚染処理技術の基礎を築いた。二戦後、新しい高速な工業化時期に入った日本では、20年にわたって、経済が2桁のスビートで増加した。都市化が迅速であったと同時に、産業汚染が深刻になり、生態環境が悪化下。巨大な農業など生産に関する損失を引き起こした深刻な汚染も住民の身心健康を損無い、おびやかした。
この悪果は本世紀の50、60年代にピークに達し、皆知っている「四大公害」は同時の日本産業公害をはっきり反映した。そのゆえ、国際の方面では、戦後の日本は経済奇跡を創造した美誉を勝ち取ったと同時に、「公害島国」の特別な称号を与えられた。
「次々たちのぼった煙や塵は繁榮のシンボルである」という、当時日本企業界ないし政府が閑居と発展との関係に対する共通した認識であった。いくら相談しても、ただ汚染してから治理するのに合意した。これは日本環境保護歴史における最も深く刻みこまれ、贅沢な教訓であった。この歴史は人が当時の環境と経済及び汚染と健康の関係に認知しベルが低かったためだけでなく、主に日本特有の「政、官僚、商界」が形成した穏やかな三元政治経済構造に統制されたためであった。それは、日本が産業汚染に対策を講ずるのは、深刻な産業公害の事実のためだけでなく、産業公害による厳しい社会や政治問題が現れ、それに政治経済の安定をおびやかしたためであった。そのゆえ、日本が産業汚染に対し、「汚染―健康損害―公害運動―地方政府―中央政府」の消極的な下から上への対策を取っただけであった。しかし、この下から上へのルートが上から下へあるいは二者兼有のルート二変わり、日本の環境管理は短い時間で成功をおさえた。1970年の「公害国会」の後、日本が10年ぐらいの時間をかけ、さらに成功した産業汚染予防の奇跡を創造した。