織田信長による天下統一は、住宅史上も画期になったと考えられる。信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城などで、身分の序列を著し権力者の威厳を示すため、安土桃山風と呼ばれる豪華な書院造が完成した。書院造は、江戸時代を通じて武家住宅および上層民家の様式として使用された(床の間のある座敷を持つことが身分の指標となった)。
中世の絵巻物などに見る町屋はまだ非常に簡素なものが多かったが、江戸時代に入ると次第に発達していった。近世初期、関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かった。農家も次第に発展し、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝のための部屋が造られていった。江戸時代後期以降、「田の字型」の間取りが広く普及していった。この間取りは結婚、葬儀など人が集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせてふすまを開け閉めして用いた。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになった。欧米から伝来した西洋建築に対し、日本在来の伝統的な様式を踏まえた建築は和風建築としてまとめられるようになる。明治時代には、他の分野と同様に住宅においても「近代化=西欧化」の動向が進むが、実際に洋風の住宅を建てるのは、政治家、実業家など限られた階層の一部の者に限られ、その場合でも、ふだんの生活は併設された和風住宅で行う場合が多かった。
大正時代以降、サラリーマン、都市知識人ら都市部の中流層が洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外にも多く造られるようになった。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。
第二次世界大戦中の空襲で、都市部では住宅が大量に失われた。戦後、住宅難の中で質の低いバラックが大量に建設され、公団住宅など、大量供給型の住宅が造られた。合理的な生活を目指してダイニングキッチンなどが新たに工夫された。戦前の住宅は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致のものが多かったが、戦後はサラリーマンの増加により、職住分離の方が主流になっている。
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