岩倉具視を中心とする勢力は明治十四年の政変によって、大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。その結果、1881年(明治十四年)10月12日国会開設の勅諭が発された。
この勅諭では、第一に、1890年(明治二十三年)の国会(議会)開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。
大隈重信が政府から退けられ、ドイツ式の国家体制を主張する伊藤博文が井上毅らとともに憲法の制定を始めた。1889年2月11日、アジア国家における最初の憲法といわれる「大日本帝国憲法」が、欽定の形で公布された。
この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。