2 「一蓮托生」の願いから見る『源氏物語』固有の浄土教
本論に入るまえに、まず『源氏物語』における浄土信仰の形態を見極めておきたい。恵信僧都源信は15歳で村上天皇に法華八講の講師に任じられ、『称讃浄土経』を講じ、永観2年から『往生要集』の撰述を始め、翌年にて脱稿した。慶滋保胤もよく源信と行動を共にし、比叡山の僧と共に学ぶ「勧学会」を開催し、さらに保胤が出家してからは、「勧学会」を念仏往生を願う組織、「二十五三昧会」にした。それがいわゆる浄土教の源流に当たるが、一括に浄土教といえども、恵信僧都源信や慶滋保胤が幻視した最先端の浄土教、世俗の老若男女が信仰した浄土教、そして『源氏物語』に描かれた浄土教は、相互に連関しているが、厳密に言うと、別の物である。この問題について、塚原明弘氏は上掲の三者の相違点は自明の理でありながら、従来意外と看過されてきた点でもあり、物語への『往生要集』や二十五三昧会の影響を探る場合にも、考慮しなければならないことであると指摘し、论文网
『源氏物語』なら『源氏物語』固有の浄土教があるはずなのである。それはまず最先端の浄土教より民俗性を帯び、世俗の信仰よりは外来仏教に近いと予想されよう。また、作者や読者の理解によって規制されることもあろうし、歴史的な変動に影響されることもあろう。物語が独自の宗教世界を創造することさえありえよう[ ]。
と述べた。その例として、塚原明弘氏は三瀬川の俗信に焦点を合わせ、源氏が藤壺の宮対して「なき人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬみつの瀬にやまどはむ」の嘆きや、玉蔓に対して「おりたちてくみはみねども渡り川人のせとはた契らざりしを」の詠歌および葵の上に対して「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」の慰めといった三つの例で、死後女は初めて逢った男に背負われて三瀬川を渡るという俗信にひそめた男主人公の悲哀や喪失感を考察し、『源氏物語』独自の浄土信仰の一端を考えてきた。その論文は三瀬川を渡るという俗信以外に「一蓮托生」にも触れたが、一二の例に言及するだけに止まっている。ここでは塚原明弘氏の先行研究を踏まえて、一蓮托生の願いについて更に詳しく考察してみよう。
『朝顔』の巻末には
かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人とがめきこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ」と思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。同じ蓮にとこそは亡き人を慕ふ心にまかせても影見ぬ三つの瀬にや惑はむと思すぞ、憂かりけるとや[ ]
と、亡くなった藤壺の宮が源氏の夢枕に立って、源氏に恨みを語り、翌朝、源氏が早く起きて、桐壷の帝に気兼ねしつつ、一蓮托生を願うという描写がある。これが『源氏物語』における一蓮托生の願いの初出である。ここの「おなじ蓮にとこそは」について、『河海抄』は『浄土五会念仏略法事儀讃』の「往生楽願文」の
池中花盡滿 花花惣是往生人 各留半坐乘花葉 待我閻浮同行人
の引用だと考える[ ]。「五会念仏」というのは、中国の唐代にさかんに行われた勤行式の一種で、唐代の僧人法照が制したものと言われる。念仏を五段階に分けて唱えるところから「五会念仏」の名がある。『往生要集』の最初の発想もこの教義に因んでいると評価された。この部分は、阿弥陀浄土に往生した人は蓮座におり、その半座をあけてこの世で同じ修行をした人を待つということを意味する。次に、「若菜の上」巻にも