「張紅倫」は古井戸に落ちた「青木少佐」が、心優しい中国人親子「張魚凱」と「張紅倫」に助けられ、戦争が終わり内地で再会する話。「ごんごろ鐘」は戦争の金属供出により、村のお寺の鐘を供出することである。「張紅倫」は日露戦争を背景として、人間と人間との心のふれあいを描くことである。。「ごんごろ鐘」は戦争のために鐘を供出することに、村人が鐘への思いを描写した。

1.1先行研究

南吉は戦時の作家で、戦争に関係がある作品が色々がある。もちろん、その作品を研究する論文も色々がある。本論文に関係ある研究論文を読み、分析する。

服部裕子が書いた「戦時体制と新美南吉  言論統制、文化統制の視点から」は、戦時体制が南吉の作品に与える影響を分析する。この論文では、太平洋戦争勃発の前年1940年から南吉没年の43年までの戦時体制下に絞り、戦争が南吉の作品に及ぼした影響について論じることにする。まず、南吉をとりまく言論統制と文化統制の状況を紹介し、戦時体制が雑誌にどんな影響を与えるのを詳しく分析している。また、南吉の作品の中で、戦時体制を反映した描写がある作品をあげ、作品をめぐって戦時体制と南吉作品の関係を分析する。この論文は、戦時体制が南吉の創作に与える影響を研究し、作品の中で戦争の描写が出る原因の一つを解釈する。论文网

竹尾利夫が書いた「新美南吉童話論――「張紅倫」について」は、南吉が「張紅倫」その作品の執筆意図から見て、この童話に対する評価を分析する。この論文は南吉の日記から、「張紅倫」の着想と題名の決まっている過程を書いている。この童話の評価と改題、改作を見て、南吉の童話論を研究する。結論は「南吉童話のいわば原点に位置付けられるべき内容と主題とを有した作品と言ってよいだろう」と書いている。

林家靖が書いた「新美南吉「ごんごろ鐘」論――庶民的感情の発見」は、「ごんごろ鐘」の作品世界を検証することによって、「庶民的感情の発見」がこの論文の重要なテーマであることを明らかにした。「庶民的感情」をキーワードにして二つの結論を導き出した。まず一つは、ごんごろ鐘を献納することについて、「僕」は近代国家の属する「国民的感情」から伝統的な共同体に由来する「庶民的感情」へと近寄っていたことである。もう一つの結論は、「ごんごろ鐘」には近代人の自意識が招きよせる人間の孤独の問題を考えようとすることから離れ、互いに助け合う「庶民的感情」を受け入れていく特徴が見られることである。

2.新美南吉と戦争

2.1新美南吉の生涯

大正二年(一九一三)七月三十日、新美南吉が生まれた。しかし、南吉の母は、彼を生んでから、病気がちになり、病院へ入院してしまった。大正六年、二十九歳の短い生涯を閉じた。その時、南吉は、ただ四歳の幼い子供だった。南吉の一生は、大正二年(一九一三)から、昭和十八年(一九四三)まで、全て戦争の影で暮らしたことである。来!自~优尔论-文|网www.youerw.com

2.1.1母の死 

 

大正二年(一九一三)七月三十日、新美南吉が生まれた。しかし、南吉の母は、彼を生んでから、病気がちになり、病院へ入院してしまった。幼い南吉は、細やかな面倒を母にみてもらえなかった。南吉の母は療養を続けていたが、大正六年、二十九歳の短い生涯を閉じた。その時、南吉は、ただ四歳の幼い子供だった。母の死は、彼の心に深い傷痕を残している。また、ちょうどう第一次世界大戦の好景気で畳の需要も増えている。畳屋を営んでいる父は、仕事が忙しくなってきたので、南吉を田舎のおじいさんの家に預けた。お母さんに死なれた南吉は、家から出て他の家に行ってしまったのは、どんなに寂しかっただろう。「幼い時の思い出」より、南吉は「ぼくは岩滑新田の家についてからどんなに寂しく思ったことでしょうか。...夕方でした。やはり僕は一月ほど新田の家にいく途中だったのです。...家から出て他の家へ行かないですむものは、どんなに幸せだろうと、そんなひどいことまで思ったのでした。」 と書いていた。

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