紅楼夢の28回では「元春からの下賜物があり、宝玉と宝釵の分だけが一緒でした。」という文がある。これから、宝釵が栄国府の人にとって林黛玉より人徳とか地位とか高くて、人を敬服させることがわかる。そして、第六十七回の「趙氏は宝釵が賈環に土産の品を届けてくれたものですから心中ははなだ喜び、『これだからね、他の人たちが口をそろえて、宝釵さまは万事にゆきとどいて、鷹扬でいらっっしゃるなんて賞眼ちぎるわけだよ。早い話が今日のこと、やっぱりたいしたおかたさまね。……これがもしあの黛玉さんだったり使用ものなら、私達母子なんか鼻も引っ掛けないって人のことだ、とてもとても私達にまで土産を届けてくれたりするものか…』」これからみれば、宝釵は大観园には大人気であることがわかる。
3 社会悲劇
3。1 一夫多妻制の束縛
『源氏物語』は平安時代中期の11世紀始め(およそ中国の五代十国の時期)に創作され、十八世紀に作られた『紅楼夢』と同然、その中には、陳腐な封建制度が暴露された。“妻問婚”が広く流行する日本平安時代に生きる紫姫は光源氏の邸宅に身を寄せるのはただ光源氏に頼って生活する、その居候の身の気持ちは、彼女しか分からない。妻問婚とは、婚姻の一種で、夫が妻の下に通う婚姻の形態のこと、婿入り婚とも言う。正妻を除き、夫と関係がある女性たちはこの夫と仲良く暮らしていれば、一緒になる、もし付き合いにくくなれば、夫と別れる。このような保障がない婚姻制度の下に、女性は受身になり待たれざるを得ない。一旦男性が自分の家に来ないとなれば、女性にとって、捨て去られるという意味がある。ゆえに、妻問婚は日本平安時代の男権に保護され、強化されていた。文献综述
また、平安時代には、一夫多妻制度が存在した。現代日本の結婚制度は一夫一婦が法的に定められている。しかし、平安時代においては一夫多妻であることが一般的であった。男性は妻を何人娶ってもよしとされていたわけである。それどころか、多くの女性を養うことができることこそが当時の社会ではステータスとなっていたのである。婚姻における男女関係は緊密でなく、安定した家庭形式もなく、双方関係は維持できなっかた。当時の男尊女卑の男権社会では、男性の要求を全部満たす淑女としての紫姫は自分の夫がたくさんの女性と交渉し、何人かの妻妾を持っている現状をずっと耐え忍んでいた。光源氏は外で泊まる毎度、紫姫はいつものように夜に眠れない。しかし、源氏は家に帰った毎度、彼女はいつものような笑顔を見せ、少しも恨みのない平気な様子を装った。女としての紫姫は自分の夫を十分愛しているとしても、封建礼教の規範で、自分の感情を抑え、嫉妬する心理を取り除かざるを得ない。
一夫多妻制は奴隷社会の産物として中国封建社会にも存在した。この社会に生きた宝釵もこの制度に束縛された。この話題をいうと、男主人公と彼の下女、特に彼と最も親密な関係を保っている襲人のことを話さなければならない。襲人は宝玉付きの侍女。宝玉の初体験の相手でもあり、正式では無いが宝玉の妾役でもある。宝玉の一切の食事、“内政外交”などは全部彼女に任せた。宝玉は彼女に対して、ほかの侍女と違って、一種特別な感情を持っていた。宝玉は黛玉に対し、ひたむきな愛情を持っているといえども、女子問題及び妻妾問題に彼の行為は一刻たりとも賈家男主人の身分に外れなっかた。彼は一度も一夫多妻制を否定しないだけでなく、懐疑の意さえも持っていなかった。さらに彼はほかの女の子と一緒に暮らすのは好きでやっているため、疲れを感じないと言える。宝玉でさえこのような態度であるが、ましてやほかの封建男子はなおさらであった。宝釵もほかの女子と同じ、宝玉と襲人の関係に対し、一度も反対の意を表しなかった。封建淑女の模範としての彼女は襲人、この宝玉の特別な“妾”に対し、普通と違っている親密な態度で接した。この点から、中国にも存在した一夫多妻制の合理さ及び封建社会に生存した女子たちのいかに悲惨な婚姻悲劇が見える。