この条約は出ると、当時、ほかの欧米列強も次から次へと日本と締結することを求めた。そこで、ずっと東アジアの隅に静かにあっている日本は開国しなければならなかった。
開国した後、多くの外国人が日本に来て、政治・経済・文化などの様々の領域で活躍し始めた。その中で、すでに第一回の産業革命を完成した欧米の各国は次第に資本主義に歩み入った。
革命は科学技術を創造し、科学技術は文化の発展と宣伝を推進していた。文明伝播の新しい手段を作ったから、文化をつよく発展することはますます盛んになった。その中で、情報交互、特に商人の間、貿易をするため、最新のニュースが必要なので、情報をはやく手に入れることはどんどん重要になった。
新聞はこれから、人々の前に姿を現れた。
横浜が開港した後、その開港場に来た外国人はもちろん、それに、本地の日本人、また、欧米に一度行ったことがある日本人は、新聞を創刊したいと思っていた。
この本文に研究する『横浜新報「もしほ草」』は、日本人岸田吟香がアメリカ人ヴァン・リードと一緒に創刊した。岸田吟香に言えば、岸田の記者の身分と中国に来た後の活動を主とする研究は多くので、その逆に、岸田が新聞にはじめに参加した『もしほ草』の研究はまったく少ないと思っている。
ですから、本文は『もしほ草』とその創刊者岸田吟香とヴァン・リードを主として、明治初期の開港場――横浜の新聞報道を研究しる。
2.明治初期の横浜
2.1横浜開港
一五世紀末から十六世紀初頭にかけて東洋に達する新航路が開かれると、当時の欧米強国のポルトガル・イスパニア(スペイン)が東洋貿易に積極的に乗り出すようになった 。このような情勢のなかで、十五四三(天文十二)年に中国向けのポルトガル船が嵐のため日本の種子島に漂着した。これが欧州人の日本初渡来のだが、本当に貿易を始めたのは十五八四(天正十二)年にイスパニア船の来航だった。
これから数百年間、次第に鎖国する形態を形成した日本との貿易条件がだんだんひどくになった。その結果、中国・オランダ両国の日本貿易はますます盛んになるに対立したのは、日本人の貿易や他の欧米諸国の日本貿易は完全に廃絶した 。その時、唯一の保留した長崎貿易が鎖国時代の日本の特色になった。
しかし、十八世紀後半に来たから、欧米列強のアジア進出の波が日本にもおよび、列強は日本の開港を強く求めた。あの時、鎖国そういう外と隔絶する手段はもう無駄になったが、幕府はその方針を変えなかった。
その後、日本に決定的な衝撃を与えたのは、一八四〇(天保十一)年のアヘン戦争の中で、隣の中国の敗戦だった。幕府はもとより諸大名の多くも表面では鎖国堅持を唱えながら内心では既に列強との対戦を避ける方向に傾いていた。このような情況のなかで、一八五三(嘉永六)年六月、ペリーの率いるアメリカ艦隊が、浦賀に来航し、修好通商要求の大統領国書を日本に渡した。強硬なアメリカに直面して、日本は提出した通商条約を拒否することできず、『日米和親条約』を結び、下田・函館を開港した。