2.1.2 芸妓の歴史
芸妓の歴史は、その流れを遡っていくと、白拍子、あそびめ、さらには巫女にたどりつきる。、「古事記」と「日本書紀」で巫女を記され、その神話では、古くから男性や女性は神を憑依させた際、舞を舞った。その神に祈る簡単な舞は最初の舞踊である。
芸妓の鼻祖は白拍子だと思われる。平安時代になると、女性の巫が布教の行脚中において、舞を表現していく中で、白い直垂や水干に立烏帽子や白鞘巻の刀をさす。その男装姿で歌や舞を表現する白拍子が生まれている。鎌倉時代まで白拍子が発展しつづけていく。やがて戦乱の世となり次第に衰えた。室町時代に、日本最古の花街と芸妓が生まれる。
江戸時代初期~江戸時代中期
遊女歌舞伎は遊女たちを通して各地に伝播し、彼女らは踊り子と呼ばれる。しかし、彼女たちは売色をした。芸能と売色を分離するために吉原が成立した。吉原で芸妓は芸能を演出しただけ、売色をしなっかた。
あの時、芸妓は幕府公認と非公認その二つの種類に分ける。非公認の芸妓の代表は江戸の大火事後産生する深川芸妓である。本格芸妓と吉原芸妓は幕府公認の芸妓である。吉原芸妓は色を売らなく、歌たり踊ったりして、そして三線を弾き、巧みな話術で座を盛り上げ、現代のお座敷に近い状態を演出した。
江戸時代中期~江戸時代後期
一七五〇年頃,京都の芸妓が現れたと言われ、島原以外の遊女が取締られた。祇園町、宮川町の遊女が島原へ送り込まれ、そこから、色を売らない芸妓となっていく。彼女は歌舞音曲に優れた。その後、辰巳芸妓や柳橋芸妓が隆盛になった。幕末になると、金春芸妓が隆盛になった。この金春芸妓が、明治維新以降、柳橋芸妓に代わって隆盛を誇る新橋芸妓へとなっていく。