『白居易研究 閑適の詩想』(埋田重夫・2006年)では白楽天の文学原理や生活原理の根幹しなやかな自己矜持を具えた自適(独善自足)の境地を形成すると考えられる。この領域を集中的に考察。著者のこれまでの白氏関係論文のなかから、閑適テーマの諸論考をまとめた。论文网
1.2白楽天の紹介
白居易は、中唐の詩人。字は楽天。雅号は酔吟先生・香山居士。
772年、白楽天は鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。徳宗の貞元年間(785~805)の進士。官は武宗の時、刑部尚書に至る。左拾遺になるが、江州の司馬に左遷され、後、杭州刺史を任ぜらる。やがて刑部侍郎、太子少傅、刑部尚書を歴任する。晩年は、仏教を信奉して洛陽の香山寺にしばしば通ったので、香山居士(居士は、在家の仏教信者)と名のっている。
白楽天は自分の詩を四つに分かれる: 閑適、感傷、風諭、雑律。詩風は江州左遷を境に二つの時期に区分される。白楽天はこの時期に官僚として最も大きな熱情と使命感を持って王朝の平和と民の幸福のために働きった。それに、杜甫の詩風を受け社会の矛盾を風刺する様な詩を作り、自分の生き方も世俗にまみれず孤高を貫いた。詩は自ずと、社会の矛盾や民の苦しみを詠った風諭詩が多くなっている。白楽天の後半生は、この王朝の衰えていく時期にあった。詩も、白楽天自身の日常生活での思いや感情を詠ったものと平易・写実的なものが多くなった。それは、 閑適詩と感傷詩である。
2.白楽天の詩が日本に流入
2.1流入前、日本古典文学の状況
飛鳥・白鳳時代には、日本は全国の統一を実現した。飛鳥・白鳳時代から奈良時代までの間は、日本文学の黎明期であり、「上代」とも言う。
人々がまだ文字を持たなかったころ、長い年月、は口から口へと語り継がれていた。
七世紀の初めごろ、中国大陸から朝鮮半島を通って漢字が流入され、漢文と、自分たちの話しことばに漢字を当てはめることによって、万葉仮名が生まれた。漢字の流入により成立したのが『日本書紀』と『古事記』である。記紀は歴史書であるが、文学作品としての価値評価されている。
この時代の文学は、和歌であれ、歴史書や漢詩集であれ、のちの文学の規範となった。
『懐風藻』は日本文学における最古の漢詩集である。また、『万葉集』のような和歌集が生まれた。万葉初期の作品には個人としての作家性が見られなかったが、後期にはよく見られるようになり、柿本人麻呂や山上憶良、大伴家持といった有名な歌人も登場した。
2.2流入後、日本古典文学に与えた影響
白楽天の詩は中国国内だけでなく、『白氏文集』は当時の貴族たちのあいだで圧倒的な愛好をうけていた。日本古典文学に大きな影響を与え、その中では閑適詩と感傷詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白楽天の詩と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に伝授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品に、『枕草子』に『白氏文集』が登場し、『源氏物語』が白楽天の「長恨歌」からの影響を受けていることも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがいしている。
「空寒み花にまがへてちる雪にすこし春ある心ちこそすれ」(『枕草子』)文献综述