2日本で五節句の伝承
2。1人日の節句(七草の節句)
「人日」とは五節句の1番目の節句で、陰暦1月7日のことである。古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしている。そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしている 。
日本には古くから年の初めに雪の間から芽を出した若菜を摘む、「若菜摘み」という風習がある。
また「若菜摘み」とは関係なく、平安時代には、中国の年中行事である「人日」(人を殺さない日)に作られて、「七種菜羹〔ななしゅさいのかん〕(7種類の菜が入った吸い物)」の影響を受けて、7種類の穀物で使った塩味の利いた「七種粥」が食べられようになったそうです。 その後、「七種粥」は「若菜摘み」と結びつき、7種類の若菜を入れた「七草粥」になったと考えられる。それから、この日も七草の節句と呼ばれる。
2。2上巳の節句(桃の節句)
「上巳」は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。古代中国では、婚姻と生育の神の高禖を祭って、人々はその日で沐浴して、禊を行い、身体を清潔にし、体の邪気を払う 。文献综述
日本に伝わって、日本旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句とも呼ばれる。江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展して行く。その後、紙製の小さな人の形を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になる。健康を祈って災厄を祓うことを目的とした農村儀礼が行われてる。桃の花や白酒、菱餅などを供えて女児の健やかな成長を祈る。また、平安貴族の10歳くらいまでの子女は、人形〔ひとがた〕を貴族の日常生活を真似たごっこ遊びをする目的に用いている。
2。3端午の節句(菖蒲の節句)
端午の節句の由来は紀元前3世紀の中国、楚で始まったとされる。楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに汨羅江に身を投げることとなる。それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。
日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられる。鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになる。庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である。
2。4七夕の節句(たなばた)
七夕とは「7月7日の夕方」を意味している。中国の伝説は天に織女という手芸にすぐれ、機織が巧みな娘がいる。ところが牽牛という婿を迎えてからは、手芸をおろそかにし、機織も怠けだしたため、天帝は怒って、牽牛を銀河の対岸に別居させ、年に一度、七月七日の夕べにだけ逢うことを許す。