また、長命寺の桜餅は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業し売り出したのがはじまりとされる。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされる。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだという。はじめは桜の葉のしょうゆ漬けだったともいわれる。山本新六は下総国銚子の人で元禄四年(1691年)から長命寺の門番をしていた。将軍吉宗の台命により享保二年(1717年)同じ年に側傍の隅田川沿いに北から南へ桜木の植栽が行われ、これを機に花見時に賑わい発展した。記録に文政のころ(1818-1830年)の桜餅屋のことが載せられている。曲亭馬琴他編の『兎園小説』の中で屋代弘賢が書いている内容からも盛況ぶりがうかがえる。
そして、『嬉遊笑覧巻十上 飲食[ 嬉遊笑覧 : 12巻附1巻下]』(文政十三年、1830年)では、「近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり」と記述されている。
さらに三田村鳶魚著の『桜餅』には「不忍の新土手は文政三年の築造であるから、それより前に、長命寺の桜餅があったのである。」とあり、文政三年(1820年)より前に長命寺の桜餅はあったと推察している。