また、僧侶は比丘というが、これはサンスクリット語の音写訳で、「食を乞う者」という意である。これが後々に中国で仏典を訳した際に乞食、また乞者などと翻訳されたことにはじまる。
上記の事項が転じて、僧侶でない者が路上などで物乞いをすることや同行為をする者も乞食と呼ぶようになった。
奈良時代には行基 などによって河川の堤防やため池・井戸などの社会インフラの整備や大仏建立のための勧進という、チャリティとしての意合いでも托鉢は行われるようになった。 こうした場合の托鉢には資金集めのほかに広報的な意合いも含まれていたため、自己の周辺地域だけではなく、遠隔地に至るまで行われるようになった。 このような遠隔地に及ぶ托鉢は、やがて平安時代末期の空也などの聖と呼ばれる遊行者による浄土教の布教活動に繋がっていった。
中国宋代以降、托鉢とも言われるようになった。中国の托鉢の歴史に関する詳しい資料は目下のところ考証できないが、大体日本の托鉢と一致することは分かる。
1.2乞食の歴史発展
1.2.1日本の非人と乞食対策
『法華経』により、非人という言葉は単に比丘や比丘尼などの人間に対してそれ以外の者、具体的には釈迦如来の眷属である天人や龍といった八部衆を指す言葉として用いられている。日本では平安時代に橘逸勢が842年(承和9年)に反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる。 非人は、代々の「非人素性」の者、非人手下(ひにんてか)という刑罰で非人になる者、野非人(無宿非人)の違いがある。主に、日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。さらに多数説によると、非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。
非人は、関東では長吏頭・弾左衛門 と各地の長吏小頭の支配下にあった。江戸の非人には、抱非人と野非人との別があった。野非人は「無宿」(今日的に考えると路上生活者のような立場の人々)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は、非人小屋頭と言われる親方に抱えられ、江戸の各地の非人小屋に定住していた。
非人の主な生業は「物乞い」だった。江戸時代、非人以外のものが勝手に「物乞い」をすることは許されていなかった。また、街角の清掃、「門付」などの「清め」にかかわる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。また悲田院 や非人宿に収容されたことから、病者や障害者の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能に従事する者もおり、芸能史の一翼を担ってきた。
中世前期は人々が畏れ忌避した業務に携わっていた非人であるが、中世後期に人々の感覚が次第に非人に対する捉え方も畏怖視から卑賤視へと変遷していったとされる。
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