2 日系デパートの発展歴史
デパートは、19世紀の中葉にフランスのパリに生成した世界で最初の近代的小売業態であり、フランスから世界各国に伝播していくうちに各地域の環境諸要因の違いなどによってかなり多様化してきている。本章では、日本におけるデパート生成の歴史的経緯を概観し、日本におけるデパート生成以降の歴史的推移を通覧しながら日本のデパートの基本的性格を確認し、その問題点を踏まえつつ現状における評価を試みたい。
明治の初頭、文明開化を求める世相の余韻さめやらぬ中で育まれたものの一つに「勧工場」がある。勧工場は、明治10(1887)年に上野公園で殖産興業政策の一環として開催された第一回内国勧業博覧会で売れ残った商品を売りさばくために、翌明治11(1888)年に東京府が設営した大型共同店舗であったが、そのような共同店舗は勧工場という名称とともにその後も引続き存続し、明治13(1890)年には民営となってあちこちに次々と設営されるようになり、 明治20年代から30年代(19世紀末から20世紀初め)にかけて最盛期を迎えたと言われている。呼称とては、ときには「勧業場」とも呼ばれ、関西ではしばしば「勧商場」と呼ばれるなど、多様な名称が用いられていたようである。勧工場はそれまでの「座売り」に代わて「陳列販売」を採用したことや、掛値なしでどの来店客にも同一価格で販売したこと、「下足預り」を行わずにそのまま土足で店舗内に自由に出入りすることができたことなど、 近代的小売業としての特質がほとんどすべて備っていたことに加え、売場では博覧会を連想させるような賑わいが醸し出され、少なくとも登場した当初は西洋文化を漂わせる各種の商品の販売などを通して文明開化のなごりの一端を担っていたという見方もでるだろう。文献综述
都市の中心部に位置じ総合的な商品構成によって広域的に顧客を吸引したことと、その吸引力をさらに強化する「都会的雰囲気と賑わい」が醸し出されていたこと、すべての商品を「陳列販売」で「現金・掛値なし販売」を行ったことなどの諸点を踏まえて言えば、勧工場は日本におけるデパートの先駆であったと言っても差し支えない。しかしながら、現実には勧工場にはもともと統一した営業理念がなくマーチャンダイジングカが脆弱であったことやほどなく粗悪な商品を取り扱うものが多くなったことなどから次第に衰退し、伝統のある有力呉服店が相次いでデパートに移行し始めるとともに跡形もなく消滅していった。
現在では、日本におけるデパートは、欧米のデパートを導入する形で伝統的呉服店から業態転換して生成したという見方が大方の一致した見解になっているが、日本に本格的なデパートが生成する以前の明治中期に勧工場が東京、大阪という東西の大都市で幅広く定着し一般大衆顧客の「買物の場」であるとともに、「憩いの場」として親しまれる存在になっていたという事実に注目すべきだろう。
デパートは、既述の通りに欧米における生成の経緯を踏まえて言えば、産業の下で都市に集ってきた工場労働者を中心とする一般大衆を対象として、量産される衣料品など各種の商品を量販することを特色として生成してきた近代的小売業であり、まさに百貨を取り扱う「ワンーストップ・ ショッピングの便宜」の提供や、「現金払い」、「正札販売」の実践といった一連の近代的な販売方式が広く一般大衆顧客層を吸引することを可能にしてきたわけである。そのような「広く一般大衆層をも対象顧客」とするという点を重視する観点に立って言えば、日本におけるデパートの本格的な生成は、関東大震災以降であると言うべきであろう。